読んではいけない人物伝 森啓成 (もりよしなり)
梅屋庄吉 - 孫文の革命を資金面で支え続けた男、「日活」創業者のひとり -
 
2011年に上海の紹興公園にある梅屋庄吉像を見に行った。 この像は2011年長崎県から寄贈されたものだ。

この公園の近くに庄吉の住居があったという。

お年寄りと子供が遊ぶのんびりとした雰囲気のこじんまりとした公園の中にひっそりと銅像は建っていた。

この銅像の写真を撮っていると近くにいた老人たちが不思議そうに見ていた。

恐らくこの公園を訪れるほとんどのひとが梅屋庄吉とはいかなる人物かを知らないであろう。

1911年の辛亥革命を始め、孫文の革命を支え続けた人物が日本人であることは中国ではほとんどの人が知らないのである。

中国人にも日本人にもその存在をもっと知ってほしい人物である。




■梅屋庄吉とは?

梅屋庄吉(うめや しょうきち)

明治元年11月26日(1869年1月8日)- 昭和9年(1934年)11月23日)

長崎県生まれ。

日本の実業家。 アジア主義者。

孫文の支援者のひとりであり、日活の創業者のひとり。


■略歴:
幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主でもあった貿易商・梅屋家に養子入りする。

一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港で貿易商として地位を築いた。

1895年(明治28年)に中国革命を企図した孫文と香港で知り合い、多額の資金援助をおこない、辛亥革命の成就に寄与している。

1905年(明治38年)ごろに日本に帰国し、日活の前身であるM・パテー商会を設立。 映画事業に取り組んで白瀬矗の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じている。

1913年(大正2年)に孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命した後も、1915年(大正4年)に孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で主催するなど、たびたび孫文への援助を続けた。

1929年(昭和4年)には南京に孫文像を寄贈している。 また、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与している。

千葉県夷隅郡長者町(現・いすみ市日在)の別荘において孫文らと秘密の会議をしばしば行なった。 この別荘は高い塀と樹木に囲まれており、外部からは内部の様子が殆ど見えず、場違いの白亜の館らしものが見える状態になっている。

日中関係の悪化に伴い、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ、急死した。 65歳歿。




梅屋夫妻と孫文

ナガサキ人 梅屋庄吉の生涯―長崎・上海で、孫文と庄吉の足跡を探す



■その他:
・孫文に対する革命への資金援助額については、
現在(2010年時点)の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。


・日比谷松本楼創業者・小坂梅吉と姻戚関係にある。 また、日活の前身の一つであるM・パテー商会の起業家の1人でもある。

・孫文との交友を記した日記や書簡については、遺族が戦後も日中関係に配慮して、1972年(昭和47年)の日中国交正常化まで公開されることはなかった。

・孫文の死後、4つの銅像を広州、黄埔、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている。

・2010年(平成22年)8月24日 、上海国際博覧会の日本館で梅屋のひ孫が孫中山故居記念館の協力を得て、庄吉夫妻と孫文夫妻の交流のドキュメンタリー、手紙、祈念写真など約74点の展示を行った。

・妻トクの生まれ故郷・壱岐にある実家・香椎家には、孫文の支援金が島のどこかに隠されている、という言い伝えが残っている。

革命をプロデュースした日本人 評伝 梅屋庄吉




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