■読んではいけない人物伝 森啓成 (もりよしなり)
 里見 甫 - 日本のアヘン王 -

里見 甫 (さとみ・はじめ)とは?

上海には通算6年間住んだ。上海には戦前日本人が10万人以上住んでいた地区がある。その虹口地区の乍浦路沿いにあるピアスアパートに2011年に訪問した。このピアスアパート全体を里見が所有していた。 

その7階建ての高級アパートは、今も存在感のある建物で
このあたりの建物の中でも歴史を感じさせる独特の風格を醸し出していた。

外観は薄茶色の化粧レンガで覆われ重厚な雰囲気がある。 

いまは浦西公寓と名を変えているが、いつまでも保存して
欲しい戦前の歴史を伝える重要建造物だ。




■ 里見 甫(さとみ はじめ)

1896年1月22日 - 1965年3月21日

ジャーナリスト、実業家。

関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。 

中国名:李鳴。




元海軍軍医であり、退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。

弟に皋(たかし)。妻は相馬ウメ(=里見由美)(1933.9~1959.6離婚)、湯村治子(1959.7~)。

子は里見泰啓(1959.11誕生)。

福岡県立中学修猷館を卒業し、1913年9月、玄洋社第二代社長 進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として
上海の東亜同文書院に入学する。

1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に
一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。

1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優のはからいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。

1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との
単独会見を行っている。

1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が
創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。

ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった
板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若と
親交を結び、蒋介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。

1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、
原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月にわたる秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。

1928年8月、南満州鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託
となり南京に移る。 ここで、国民政府に対し満鉄の
機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。

1931年9月に満州事変が勃発すると、翌10月に関東軍で
対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて
奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。

これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。

また、司令部第4課課長松井太久郎の指示により、
満州におけるナショナル・ニュース・エージェンシー
(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長
鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の
創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、
電通の創業者光永星郎との交渉を行い、
1932年12月、満州における聯合と電通の通信網を統合した
国策会社である満州国通信社(以下「国通」)
が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する。

1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、
ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。

1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。

1936年9月、5年住んだ満洲を去る。

1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長
影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、
抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。

1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。

ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して
設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった
昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、
上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。

ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった
汪兆銘政権に回した。

また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。

この活動を通じ、関東軍参謀長であった東條英機、満州国総務庁次長であった岸信介・古海忠之、満州国民政部禁煙総局長であった難波経一、満州国産業部鉱工司長であった椎名悦三郎、岸信介の実弟であり当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向していた佐藤栄作、興亜院華北連絡部書記官であった愛知揆一、同華中連絡部書記官の長沼弘毅、海南島・厚生公司東京事務所責任者で
あった高畠義彦らと知己となり、一方で、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された。なお、古海は後に里見の葬儀において葬儀委員長
を務めている。

1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。

戦後、1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、
1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者として
GHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。

1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、
同月不起訴となり無条件で釈放される。



その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。

1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。

千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。


阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)



■備考:
里見は「電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。

電通通信史刊行会の「電通通信史」 (1976; 以下『電通史』と略す)によると現在の広告代理店の電通は光永星郎を創業者とする「日本電報通信社」という通信社に始まっている。

光永は日清戦争で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の
新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた。

御手洗辰雄の「新聞太平記」 (1952; 以下『太平記』と略す) では、光永が通信社経営のために苦心した様子が描かれている。

光永はニュースを新聞社へ売ったとしてもそれだけでは経営が立ち行かないと考え、全国の新聞の広告欄について広告主と新聞の仲介者として手数料を取る広告代理店の業務を兼業するアイデアに至る。

通信社が広告代理店となったのはこれが最初ではなくフランスのAFPにも例があり、国内でも光永が最初ではない。
しかし新聞市場を科学的に研究した光永は「新聞年鑑」を発行するなどプランを実現化する。

月間の広告取扱高は150万円、日本の新聞広告の7割を掌握し、株主配当7分という優良企業に成長した電通は銀座の顔となった8階建ての自社ビルを建てる (『電通史』) 。

ただし、同時に新聞の部数を把握して新聞社の生命線である広告単価を握っていた電通のやり口は周囲の反感をもたれていたとする見方もある (『太平記』) 。新聞と広告の二本柱で「国を代表する通信社」となった電通を広告のみと分割させたのは、情報局を背景とする国家代表通信社「同盟通信社」の創設である。

これを電通のライバルである「新聞連合社」の古野伊之助の策謀にあると見る者がある。

駄場裕司は『後藤新平をめぐる権力構造の研究』 (2007) で、同盟通信社設立を取り上げた朴順愛「『十五年戦争期』
における内閣情報機構」(『メディア史研究』第3号、1995)についてその硬直性に言及しているが、現在は広く以下の観点が一般的である。

即ち、戦前の日本の新聞社は外国からのニュースを通信社から得ていたが、古野は国家の中枢に働きかけ外国から情報を得る通信社を一元させようとして電通を切り崩しにかかったとする見方である。

これは国家の情報統制と歩みを一つにしているとする見方である。このステップとなったのが満州における電通勢力の排除であり、その結果として「満州国通信社」は創設されたとする見方である。

満洲国通信社の『国通十年史』 (言論統制文献資料集成に収録) によると新聞連合社の奉天支局長の佐々木健児が本庄繁に推薦したのが兄事していた里見とされ、里見はこれにより初代主幹となる。

組織が曖昧なため主幹という名称となっている。ちなみに2代目の理事長は松方三郎である。

『国通十年史』では本庄に創設に関する研究を指示された里見だが、通信社と国内の情報機関についての内情が不明なため、1932年に来日した際に面識のあった大阪の能島進 (電通支社長) に説明をもらった上で白鳥敏夫、鈴木貞一、上田碩三、古野伊之助と面談して組織の基盤作りにも松本重治の協力を求めたとしている。

佐野の一文はこのような背景がある。(佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』)戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。



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