■読んではいけない人物伝 森啓成 (もりよしなり)
内海藤太郎 - 伝説の料理人。最高峰ホテルを渡り歩く -



内海藤太郎とは?



内海 藤太郎

1874年~1946年

■略歴:
帝国ホテル、横浜ホテルニューグランド、大阪ホテル、神戸オリエンタルホテルと、東西の主要ホテルの料理長を歴任し、日本のフランス料理界の礎を築いた伝説の料理人。

日本人でありながらフランス人家庭で育ったという特異な出自もあって、外国人客を魅了する類まれな腕によって、日本の西洋料理界にその人ありと知られた。


■生い立ち:
横浜に生まれた内海藤太郎(とうたろう)は、幼少期に親を亡くしたため、叔母が嫁いだフランス人ガローの家で育てられた。

この「日本の中の外国」といえる居留地で育ったという生い立ちが、内海の独特の価値観を形成し、成人した頃でも、フランス語はペラペラだが日本語はカタカナ程度しか書けなかったと言われ、仕事中も感情が出ると、日本語よりもフランス語が先に口から出てきたと言うくらい、当時としては日本人離れしたコックだった。


■横浜のホテルから帝国ホテル総料理長に

少年時代から横浜居留地の外国人ホテルで修行をし、フランス人コックから「外国人客のための料理」を学んだ内海は、生涯あくまで「外国人のためのフランス料理」を心がけていたといわれ、二十歳の頃には早くも神戸のミカドホテルで料理長になったが、その腕に関西のコックは舌を巻いて驚いたという。

そして再び横浜に戻り、居留地十一番にあったレオン・ミュラウールが経営するオリエンタルホテルで、フランス人コック・A.Duron(ジロン、デュロン)の下でセカンドを務める。

その後、デュロンは帝国ホテルの第三代総料理長になったが、帝国ホテルを二年で退社し、横浜居留地で「フランスホテル」の経営者として独立したので、内海がその後を継いで、1909年(明治四十二年)に帝国ホテル第四代総料理長に就任した。

当時の帝国ホテルの厨房組織はまだ未成熟な状態にあり、様々な経歴や出身のコックがそれぞれ派閥を作って分裂状態であったのを、内海は強力なリーダーシップで掌握し、帝国ホテルの厨房組織とメニューを確立させた。


内海のフランス料理は、特に外国人客から高い評価を受けたので、当時一流と呼ばれた他のホテルやレストランの経営者やコックからも一目を置かれる存在になった。

「東洋軒」の伊藤耕之進、小笠原兵佐衛門、林玉三郎、「築地精養軒」の五百木竹四郎といった西洋料理界の名士達がたびたび内海の下を訪れ、「日光金谷ホテル」初代料理長の渡辺朝太郎、「奈良ホテル」初代料理長の久富久太郎、「神戸塩屋ホテル」料理長の山口勇治などは、内海の技を学ぶためにわざわざ帝国ホテルの厨房で「長期研修」として働いたこともあった。

1936年(昭和十一年)に発行された『灯』(川副保著/ホテルタイムズ社)では、内海の料理を「料理の最高峰にあり」と評している。また、内海の書くフランス語も流麗で、内海の書くメニューの美しさは日本一とも言われた。


■鬼のシェフ

厨房における内海は相当厳しかったと伝えられている。

内海を知る弟子達はみな、「厨房では鬼のように怖かった」と言い、ストーブ前にいる内海には近づくことすら容易ではなかったという。


部下への躾の厳しさも並ではなく、仕事中は一言の雑談も許されず、弟子がミスを犯そうものならば即座にはり倒した。

遅刻するコックがいると、襟首をつかまえて引きずり出して外に放り出した。

その対象は下っ端コックに対してだけではなく、当時の帝国ホテルの副料理長は80キロ近い巨漢だったが、ミスをしようものならそれを内海はビンタ一発ではり倒したといわれ、そのビンタを恐れて逃げ出したコックは数え切れないという。

しかし、内海は自分にも厳しく、総料理長であっても月に一度しか仕事を休まず、毎朝七時過ぎには必ず出勤し、体調管理を徹底して、夏場であってもコック服の下にはシャツを着込み、生水は絶対に飲まずにビン入りの飲料を飲み、晩酌も一日一合と決め、煙草は決して人前では吸わなかった。

料理への研究は常に怠らず、エスコフィエをはじめとする料理の洋書を片時も離さなかったといわれ、料理一筋に生き、確固たる信念を持った人物だった。


■徹底した料理へのこだわり

内海は、「自分は外国人から外国人のための料理を学んで来たので外国に渡る必要はない」と言い、自分の料理に対して絶対の自信を持っていた。

また、装飾よりも味本位の料理を重視し、「料理はデコレを食うんじゃない」と、うるさく弟子に言ってたというので、装飾過多なカレーム時代の料理ではなく、エスコフィエやモンタニェといった、当時のフランスの最新の潮流を押さえていたと思われる。

しかし、あまりに頑なに純粋なフランス式の料理にこだわったため、時として和風の味付の料理を提供することを求めた当時の帝国ホテル支配人・林愛作と対立したが、多くの顧客が内海の料理を絶賛し、特に外国人客から最高の評価を得ていたので、支配人の林は内海に屈せざるを得なかったという。

とはいえ、支配人の林もまた日本ホテル史に名を残した名支配人であり、一筋縄ではいかない頑固者であったため、両者の対立が深刻を極めると、最終的には内海が帝国ホテルを退社することになった。

内海が帝国ホテルを去ると決まると、大阪ホテル、トアホテル、神戸オリエンタルホテルといった西日本のホテルから来て欲しいと声がかかり、このことからも、当時内海の名声が全国的に高かったことが伺える。

結局、帝国ホテル系列の大阪ホテルに移ることになり、その時、帝国ホテルから、内海を慕う弟子達も供に関西に移り、ここから内海の仕事が再び関西に広がっていく。

なお、内海が抜けた後、帝国ホテルの料理の評判が落ちてしまったため、さしもの林支配人も内海を呼び戻そうと動き、内海を説得するために弟を関西に行かせたという。

それで内海も戻ることを承諾していたが、その時帝国ホテルが火事で全焼するという大事件が発生し、その責任を取って林支配人が辞任したため、その話は立ち消えて実現しなかった。


■ニューグランド時代

関西での内海は、1920年(大正九年)に開業した大阪ホテル系列の「今橋ホテル」の開業料理長を務めるなどして活躍していたが、1927年、横浜ホテルニューグランドが開業するにあたり、パリから招いた総料理長サリー・ワイルの補佐役として内海に白羽の矢が立ち、内海は、弟子の浅野清吉や木村健蔵を連れてニューグランドに入社した。

ニューグランドは、関東大震災で荒廃した横浜の復興のシンボルとして立ち上げられた大プロジェクトで、中でもレストランは看板として特に力が入れられ、厨房には全国から腕利きのコックが集められた。

当時内海は五十三歳、総料理長のワイルは三十歳という年齢差だったが、そんな若造の下につくことを受け入れたのは、「自分は日本にある西洋料理は知り尽くしているから、新しい料理を知るためにニューグランドに来た」と言っていたと、当時ニューグランドでメニューのタイピングをしていた平井四郎氏は証言している。(『初代総料理長サリー・ワイル』より)

このことから、内海にとってニューグランドは、自身のフランス料理追及の一部だったと考えられる。

ニューグランドでのワイルはメインダイニングとグリルルームの二つのレストランの総料理長を掛け持ちし、ともに客席に出て顧客に直接サービスすることも多かったので、常連のための特別料理などを除くと、実際の調理はかなり部下に任せていた。

メインダイニングの実際の調理作業のほとんどは内海が取り仕切っていて、開業したばかりのニューグランドの料理が高い評価を受けられたのは、内海の高い技術が支えていたといわれている。

また、内海とワイルは親子ほど年齢が離れた関係だったので、ニューグランドでの内海は、よく“Cochon de lait”(乳のみ豚)と言って、ワイルの尻を追い回してふざけていたという。

ワイルと内海はいつもフランス語で会話をし、厨房の方針やメニュー、料理の味などはワイルが決め、ワイルは内海に新しい料理を教えていたが、メニューには内海の得意料理を加えることもあり、二人の関係は非常に良好だったと伝えられている。

内海がニューグランドにいたのは二年の間であり、歴史という大きな視点で二年というと短いが、ひとりの人間にとっての二年間というのは決して短い時間ではない。

日本の西洋料理の頂点ともいえる帝国ホテルの総料理長を務め、「鬼」とまで言われながら、二十歳以上も年下のコックの下につくことを承諾し、教えを受けながら二年も務めあげたのだから、そこには内海の西洋料理に対する探究心の深さと、人間としての器の大きさがあったことが伺えるエピソードといえる。

そして、ワイルから吸収できるものを吸収した内海は、先の浅野や木村といった弟子達とともに関西に戻り、神戸オリエンタルホテルの料理長に就任した。


■偉大な親分

仕事は鬼のように厳しかったが、それ以外では温情あり、懐の広い「親分」だったという。

若いコックをいじめる先輩コックがいると叱り付け、仕事が終われば「ゆっくり休めよ」と労いの言葉をかけ、「鬼」ではあったが、真面目に務める部下には手を出さなかった。

内海が帝国ホテルから弟子とともに大阪ホテルに移った時、弟子の月給は5円に決まったが、その弟子よりも年上の大阪ホテルのコックの月給は4円だった。

それで内海は、「しょうがねえからお前の月給を4円にするぞ」といって弟子の給料を4円に下げ、その代わりに自分の月給から毎月1円の小遣いを渡し、部下の間で不和や不公平が生じないよう配慮した。

神戸で海軍の観艦式が開催された際、そこには皇室の厨房を取り仕切る「天皇の料理番」こと秋山徳蔵も随行していたが、その時、内海を見つけた秋山は、わざわざ内海のところまで挨拶に行った。

内海と秋山は直接の師弟関係はないにもかかわらず、料理界の天皇が挨拶しに来る姿を見て弟子達は、自分の師匠を誇らしく思ったという。このエピソードは、当時の料理界全体において内海が実質的に親分格の存在だったことが伺えるエピソードである。

鬼のように厳しくとも、こうした親分肌で偉大な内海を慕うコックは多く、内海の周りにはいつも取り巻きがいたといわれ、その門下からは田中徳三郎(「東京會館」料理長)、小嶋鶴吉(志摩観光ホテル初代料理長)、木村健蔵(神戸オリエンタルホテル料理長)、岡山広一(倉敷国際ホテル料理長)など、戦前・戦後にかけて活躍した多くの名料理人を輩出した。

中でも、内海を最大の師として尊敬してやまない田中徳三郎は、「お前はよく辛抱したな」と内海に言われたことを、最高にして唯一の褒め言葉だったと述べているが、これも、内海が「鬼」と呼ばれるゆえんを示す有名なエピソードである。


■晩年

晩年は神戸オリエンタルホテルの料理長の座を弟子の木村健蔵に譲り、故郷の横浜に帰って隠居し、鶴見の自宅で1946年に没した。

戦後まもない頃、日本のホテルの西洋料理人の流派といえば、東の帝国ホテル系・横浜ニューグランド系、西のオリエンタルホテル系、といわれていたが、そのいずれのホテルでも料理長としてその礎を築いた内海は、まさに日本の西洋料理の礎を築いた偉大なる「親父」であり、伝説のコックとして今もその名を語り継がれている。


■関連書籍:

フランス料理人伝説〈第2巻〉帝国ホテル




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