■読んではいけない人物伝 森啓成 (もりよしなり)
血脇守之助 - 野口英世のパトロン、野口より人格者 -

血脇守之助とは?



血脇 守之助(ちわき もりのすけ)

1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)

日本の歯科医師。 日本歯科医師会会長。

東京歯科大学の創立者の一人。

明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。

また、野口英世のパトロンとして知られる。


■野口英世 エピソード:

<両親と生家>

野口の父の佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。

後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの
野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも佐代助から受け継いだ才能であったと言われている。

ただし野口は、酒好き放蕩好きな浪費家という佐代助の欠点をも受け継いでいるが、伝記では伏せられることが多い。

野口の母シカは農作業のかたわらで副業として産婆を営んでいた。

1899年、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。

この点において、野口とシカは奇しくも親子二代にわたって医学関係の仕事に携わっていたと言える。

野口は渡米後、母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。 これは母親が大変字が下手な事を考慮して送ったものである。

前記の通り野口の母はもともと文字の読み書きができず、
正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ事情がある。

1912年に母が野口に宛てて書いた手紙が1通現存しており、当て字の漢字(「勉強」を「べん京」)が混じったり、会津弁の表現・発音がそのまま出たりした(共通語なら「に」と書く助詞を「さ」、「え」となる箇所を「い(イ)」と書いたり、「写真」を「さしん」と書くなど)文章に、筆記の苦労がうかがわれる内容となっている。

一度の帰国は母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。

少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川のほとりでの以下ような口論があった旨、姉・野口イヌの後年の回想にある。

イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。 姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」

押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。

清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」
(野口英世記念会「野口英世-少年期」)


<異性関係>

会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、
幾度も恋文を送る。

しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎(現在の日本医科大学)で、
逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。

1899年(明治32年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。

その後、山内は1902年(明治35年)に20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。 会津若松で三省堂医院を開業する。 野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。 君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊池に送っている。 野口が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。

渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。

血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。
血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。

現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。


<血脇守之助と野口英世の関係>

野口は貧乏育ちのためか金銭感覚が疎く、非常に金遣いが荒かったことが知られる。

留学前に血脇守之助からもらった当時500円という大金を遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったといわれる。

それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しへ行き、野口のために再び留学資金を準備した。 このことに野口は涙を流したと言われている。

1922年(大正11年)、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜まで付きっきりで案内してまわった。

血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまで会わせた。

別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。 これでお相子だな」と言ったが、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいか知れません」と言葉を返した。




■ 血脇守之助の年譜:

1870年3月2日(明治3年2月1日)、
下総国南相馬郡我孫子驛(現・千葉県我孫子市)に加藤誠之助・たきの長男として生まれる。

父誠之助は代々名主を務めた秋山家出身で、旅籠屋を代々営んでいた加藤家に婿入りした。

守之助が4歳の時に母たきが病死。
土地の風習から父誠之助は加藤家を離れ、守之助は以後祖父の栄助・いわ夫婦によって育てられた。

1878年(明治11年)4月、我孫子の尋常小学校に入学。

1882年(明治15年)12月叔父に伴われて上京、
慶應義塾童子寮・東京英学校(青山学院の前身)
・明治英学校・進文学舎・共立学校(開成中学の前身)
・講道館・大成学館・明治学院(ヘボン塾の後身)を経て、
1888年(明治21年)4月、慶應義塾別科2級に入学、
翌明治22年4月慶應義塾を卒業。8年に及ぶ東京遊学であった。

1888年(明治21年)、18歳のとき血脇家に入り、以後血脇姓を名乗る。

1890年(明治23年)5月、東京新報社に入社。怪我のため4ヶ月で退社。

1891年(明治24年)1月、新潟・三条町の米北教校に
英語教師として赴任。米北教校は東本願寺の僧侶の
機関学校で、三条町では唯一の中等教育を施す学校であった。

1892年(明治25年)、三条で医師田原利と出会い、歯科医師になることを決意。

1894年(明治27年)、三条を離れ上京、高山歯科医学院に入学。

翌1895年(明治28年)、歯科医師免許を取得し、高山歯科医学院講師兼幹事に就任。

1897年(明治30年)11月、野口清作(後の英世)が
守之助を頼って会津から上京。野口の才能を認めた守之助は、高山歯科医学院の院長高山紀齋と交渉して4円の月給を7円にしてもらい、そのうち2円を野口に渡している。守之助いまだ27歳である。

このとき野口には「君のおかげで昇給したよ」と告げたという。

また、このあと試験に臨んで済生学舎に入学したいという野口のために、高山紀齋に医院の経営を任せてもらうよう交渉し、学費・下宿代として月額15円を捻出している。

1899年(明治32年)、日本医事週報社社長・川上元治郎より出張歯科診療を依頼され清国に渡る。芝罘(ちいふう)、
天津、北京、上海を1年かけてまわり、翌年帰国。守之助と同行した石塚三郎はこのとき袁世凱の歯を治療している。

清国から戻った守之助は、今度は新天地台湾への渡航を願い出る。

1895年の下関条約で台湾が日本に割譲されたばかりの頃である。

しかし高山紀齋をはじめ各方面から慰留され、これを断念。
「混沌の歯科界に光明を与え、錯綜する難問を解決する
には君をおいてほかに人なし」とされた。

1900年(明治33年)7月、広瀬ソデと結婚。

1917年(大正6年)までに5男3女を儲ける(うち2人は夭折)。

1901年(明治34年)2月、高山歯科医学院を継承する形で
東京歯科医学院を設立。東京歯科医学院は現在の
東京歯科大学である。同年3月には血脇歯科診療所を開設。
自宅を兼ねたこの長屋には、奥村鶴吉、阪秀夫、
早川可美良、遠藤至六郎、水野寛爾、長屋弘(戦後、新制初の歯学部、愛知学院大学歯学部を創設)多くの若者が食客として集った。また、清国から帰国した野口英世も一時期ここに住み込んでいたことがある。

野口には、1899年(明治32年)の野口の清国渡航の際、
1900年(明治33年)の野口の渡米の際と、幾度にもわたって資金を準備している。いずれも、公費を遊興や賭博で使い果たした野口が、守之助に無心した形である。

1902年(明治35年)からは、東京歯科医学院の門下を
海外留学生として渡米・渡欧させ、学術研究の振興を図っている。

1907年(明治40年)、東京歯科医学院の新校舎を落成、
東京歯科医学専門学校の設置認可を受ける。

1912年(明治45年)、日本歯科医学会の会長に
就任(〜1916年(大正5年)4月)。

1919年(大正8年)、日本聯合歯科医師会の会長に就任。

1922年(大正11年)、遠藤至六郎ら11人を伴って
欧米を視察、パリ・ベルリン・ロサンゼルスを回る。
また、マルセイユに入った際には、カイゼル髭を
スクウェア型に変えて、旧敵国ドイツ皇帝の象徴を見せて
フランス人に悪感情を起こさせる愚を避けた
といわれる(1914年 - 1918年の第一次世界大戦で
仏独は敵国同士)。

アメリカでは野口英世と再会、ともにハーディング大統領を
表敬訪問している。このとき野口は往年の恩義を
忘れず守之助を最大限に歓待、38日間の守之助の滞米中、それこそつきっきりで世話をやいた。

野口の労に対し守之助は、「既往の私の世話を帳消しにしてほしい」と申し出たが、野口は「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消しはありません。
昔のままに清作と呼び捨てにして下さい」と応えたという。

1926年(大正15年)、日本歯科医師会の会長に就任、
以後21年にわたり歯科界の運営に尽力。医療制度
および医療行政に関連する内務省衛生局・厚生省の
各種審議会、調査委員会の有力メンバーとして活動した。

1928年(昭和3年)、野口英世客死の報。

1943年(昭和18年)、東京歯科医学専門学校校長職を奥村鶴吉に譲り、引退。

1947年(昭和22年)1月末からの風邪が肺炎に悪化、2月24日死去。享年77。

歯科医療の現在と血脇守之助





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