■読んではいけない人物伝 森啓成 (もりよしなり)
平賀源内 - エレキテルの紹介、「土用丑の日」考案、異才の男色家、陰間茶屋の常連でガイドブック発行、CMソング作詞作曲、獄死か生存か謎のまま -



平賀 源内とは?



平賀源内(ひらが げんない)

享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日)

江戸時代中頃の人物。

本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。


■人物と業績:
天才、または異才の人と称される。

鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。

文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。

また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。

男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。


二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)


『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。

源内の墓碑を記したのも玄白で、

「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」

(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや 〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)

とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。

発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。

一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する)。

気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。

ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。

エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという。

土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。ただし大伴家持が発祥ともいわれている。

明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。

浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。

江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。

衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。

鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。

文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。


◇陰間茶屋(かげまちゃや):
江戸時代中期、元禄(1688-1704)年間ごろに成立した陰間が売春をする居酒屋・料理屋・傾城屋の類。

京阪など上方では専ら「若衆茶屋」、「若衆宿」と称した。

◇陰間(かげま)とは、江戸時代に茶屋などで客を相手に男色を売った男娼の総称。特に数え13 - 14から20歳ごろの美少年による売色をこう呼んだ。

陰間は男性相手が主だったが、女性も客に取ることがあった。

◇陰間茶屋 概要:

元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指した。

彼らが男性と性的関係を持つことは、女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の姿のままの男娼が多くを占めていた。

陰間茶屋は当初は芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化して、独立した陰間茶屋が増えていった。

売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着した。

江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。

京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった。

江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた。

料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。

平賀源内が陰間茶屋や男色案内書とでもいうべく
『江戸男色細見-菊の園-」、『男色評判記-男色品定-』を出しており、それによれば一刻(2時間)で1分(4分の1両)、一日買い切りで3両、外に連れ出すときは1両3分~2両がかかった。

ちなみに江戸中期における1両は現在の5~10万円相当とされる。


主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった。

但し江戸幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。



■平賀源内 来歴:

源内は通称で、元内とも書いた。

諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。

数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん)、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうち きがい)の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)などといった別名でも知られていた。



平賀源内作のエレキテル(複製)。国立科学博物館の展示。


讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。

父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。

兄弟が多数いる。

白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。

後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。

幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。

また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。

寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。

宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大坂、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。

2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。

宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。

物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。

宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する。

このとき「仕官お構い」(奉公構)となり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。

宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。

江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行。

オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。

明和年間には産業起業的な活動も行った。

明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。

秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。

安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。

大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。

獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。

享年52。

杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。


■墓所:


平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。


戒名は智見霊雄。

墓所は浅草橋場(現東京都台東区橋場)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。

また、その背後には源内に仕えた従僕である福助の墓がある。

友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。

この墓の敷地は1931年(昭和6年)に松平頼寿により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に国の史跡に指定された。

平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
・大意:ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか


また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。

一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる両墓制)といわれているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する)。




=>Back