■読んではいけない人物伝  森啓成 (もりよしなり)
 薩摩治郎八 - 放蕩家 日本代表、仕送り月額3,000万円、バロン薩摩、仏で民間外交、豪快人生、歩くノブレス・オブリージュ -

薩摩 治郎八(さつま じろはち)とは?



「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代



1901年(明治34年)4月13日 - 1976年(昭和51年)2月22日)

日本の実業家、作家で大富豪として知られた。

その華麗で洒落た浪費ぶりから、「バロン薩摩」
と呼ばれた(フランスにて、10年間で約600億円使ったという)。


■生い立ち:
東京・日本橋において一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として生まれる。

1920年(大正9年)にイギリスのオックスフォード大学に留学し、ギリシア演劇などを学びつつ、「アラビアのロレンス」として知られたトーマス・エドワード・ロレンスや藤原義江などと親交を結んだ後、1922年(大正11年)に当時の好景気を背景に隆盛を極めていたフランスのパリに向かう。

■「バロン薩摩」:
パリでは実家から与えられた莫大な資金を元に、16区の高級住宅街に豪奢な住居を構えた。 

カンヌやドーヴィルなどのリゾート地を行き来する生活を送り、その一方でイサドラ・ダンカンやジャン・コクトーなどとの親交を深めた他、ニースで行われたコンクール・デレガンスに銀色のクライスラー・インペリアルの特注車と妻とともに登場し優勝を飾るなど、当時のヨーロッパの社交界にその名を轟かすこととなった。 

その豪快かつ華麗な振る舞いから、爵位がなかったのにもかかわらず「バロン薩摩(薩摩男爵)」と呼ばれていた。




■文化貢献:

その一方で、当時モンパルナスを拠点に活動を行っていた画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男など当時パリで活躍していた日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた。

また当時、フランス政府が各国に提唱して留学生の宿泊研修施設を、パリ14区のモンスーリ公園に隣接したパリ国際大学都市に建設するように呼び掛けたものの、日本の外務省は「資金不足」を理由にこれに対して出資しなかったため、元老として知られた西園寺公望公爵の要請を受けた薩摩が全額出資し、1929年(昭和4年)5月に「日本館」を建設した。

これらの活動が評価されてのちにフランス政府からレジオンドヌール勲章が与えられた。なお「日本館」は、薩摩の名をとって「薩摩館」とも呼ばれる。


■第二次世界大戦:

1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年にはドイツ軍にパリが占領され、親独の(つまり日本と同じ枢軸国側についた)ヴィシー政権が設立されたが、その後もパリに留まる。

さらに1941年12月には日本も第二次世界大戦に参戦し、多くの在仏日本人がフランス国内に取り残されることとなったが、薩摩もパリへ残ることとなった。

なお、この頃同じくパリに住んでいた俳優の早川雪洲とも親交を持つ。

1944年には勢いを取り戻した連合国軍が、ヴィシー政権と対立していた「自由フランス」のシャルル・ド・ゴール将軍とともにパリを解放し、その後1945年に入りヴィシー政権が崩壊した。

これにより薩摩は「敵国人」となったものの、戦前よりフランスの上流階級との関係を持ち、更に政治的な行動を行わなかったこともあり、迫害を受けることはなかった。

なお同年8月に日本が連合国に敗北し、第二次世界大戦が終結した後には、早川らとともに、フランス国内に取り残された多くの日本人を帰国させるために活動した。


■帰国後:

第二次世界大戦後の1956年(昭和31年)に日本に戻るが、敗戦後に連合国軍により行われた農地改革などにより薩摩家は没落し、土地や財産はすべて人手に渡っていた。

しかし帰国後も日仏親善団体の「巴里会」に加わり、自ら企画した日仏プロ自転車競技大会を実施させ、この大会を通して知り合った加藤一の渡仏を支援するなど往年の人脈を発揮させていた。

だが1959年(昭和34年)に徳島県を訪れ、旧友の蜂須賀正氏侯爵の墓参りを兼ねて阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れる。

その後は徳島で療養生活を送り、1976年(昭和51年)に死去した。

1988年(昭和63年)「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」展が徳島県立近代美術館などで開催された。

これは、薩摩の援助を受けて巴里の日本人画家たちが1929年(昭和4年)に開いた仏蘭西日本美術家協会展(薩摩展)に焦点を当てた展覧会である。


■家族:
1926年(大正15年)に山田英夫伯爵(松平容保の五男)の娘・千代と結婚した。

千代の死後の1956年(昭和31年)に、浅草の踊り子小屋(ストリップ小屋)の花形だった真鍋利子と再婚し添い遂げた。


■エピソード:
留学当時18歳の少年であったが、月々の仕送りは当時のお金で1万円(現在の価値で約3,000万円)だった。

パリにいた多くの日本人芸術家を援助したが「パトロン気質とは、気に入らないものには1銭も出さないものだ」として佐伯祐三を認めず、援助しなかった。

無名時代の美輪明宏を大変かわいがっていた。





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