■読んではいけない人物伝 森啓成 (もりよしなり)
ジョン万次郎 - 好物は鰻の蒲焼。14歳で漂流後、渡米。アメリカの学校で首席。金の採掘で帰国資金作り。東大の英語教授。 1859年発刊の英会話教本が復刻 -



ジョン万次郎とは?


中浜万次郎、1880年頃



ジョン まんじろう
John Manjirō

文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。

日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師などとして活躍した。

ジョン・マン (John Mung) とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたため広まったもので、それ以前には使用されていない。


■生い立ち、漂流と渡米:

中浜万次郎は文政10年(1827年)、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男として生まれた。

万次郎が8歳の頃に父が亡くなり、また母と兄が病弱な為、幼い頃から働いて家族を養った。寺子屋に通う余裕が無かったため、読み書きも殆ど出来なかった

天保12年(1841年)、万次郎が14歳の頃、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間の伝蔵、重助、五右衛門、寅右衛門の4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。

そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。

日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。

生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン (John Mung) の愛称をアメリカ人からつけられた。

同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。

民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。


■捕鯨生活と帰国:

学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれた(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位は譲った)。

1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。

1850年(嘉永3年)5月、日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。

数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。

そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。


1850年12月17日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。

嘉永4年(1851年)2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。

海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。

斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。


薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。

長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。

高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2ヶ月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰る事が出来た。


■帰国後の活躍:

帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。

嘉永6年(1853年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。

その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。

安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。

藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することを訝しがる者が多かったことも挙げられる。

また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。

万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。

船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。

サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。

文久2年、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。

江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語の教示を行っている。

慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入。

慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。

明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。

明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機した。帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。更に帰国途上にハワイにも立寄、旧知の人々と再会を果たした。

帰国後に軽い脳溢血を起こし、数ヵ月後には日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。

明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷ついている。


■社会的影響:

嘉永5年(1852年)、土佐藩の絵師・河田小龍(川田維鶴)により漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』がまとめられた。
坂本龍馬も中浜万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。

アメリカの様々な文物を紹介し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与えた。

■人物:
・傲ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。

・甘いものや、うなぎの蒲焼が好物だったという逸話が残っている。

・外国の文物を説明する際、鉄道など言葉に置き換えて説明することが難しいものは絵を描いて図解を試みたものの、絵が不得意で幼児並の絵を描くことしか出来ずにずいぶん苦労したようである。


■日本初:
・『ABCの歌』を日本に初めて紹介した。

・日本で初めてネクタイをしたとも言われる。

・初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。

・日本人で初めて近代式捕鯨に携わった。

・日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった。

・『新アメリカ航海術』を和訳している。


■アメリカとの交流:
日本にいる中浜万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けている。
また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられている。


■ジョン万次郎と英語:
ジョン万次郎は、英語を覚えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音しており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっている。

中浜万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こーる」=「cool」・「わら」=「water」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New York」など。

実際に現在の英米人に中浜万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似しており十分意味が通じるという実験結果もあり、万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日本人にも発音しやすい英語として教えている英会話教室もある。

中浜万次郎は武士階級ではなく漁民であり、少年期に漢文などの基本的な学識を身に付ける機会を得ずに米国に渡ったため、口語の通訳としては有能だったが、文章化された英語を日本語(文語)に訳することが不得手だったとされる。

そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は能力を発揮する機会に恵まれなかった。
晩年にアメリカ時代の友人が訪ねてきたが、既に英語が話せなくなっていたといわれる。


■著名な家族:
・中濱東一郎 - 中浜万次郎の長男。医師。

・中濱絲子 - 中浜万次郎の孫。与謝野鉄幹の門下生。「白藤の君」と謳われ、晶子と同時期「明星」等で活躍した歌人。

■ジョン万次郎生家:


平成22年10月31日、茅葺木造平屋建ての生家が復元された。入場無料、年中無休、午前8時から午後5時まで。
所在地:高知県土佐清水市中浜地図

著書:
『英米対話捷径』 - 日本最初の本格的英会話教本とされ、全213の日常会話対訳を掲載。1859年刊。


ジョン万次郎の英会話

<内容>
今 よみがえる、「英語使い」万次郎。

時は幕末――安政の大獄で動乱をむかえていた1859年、日本最初の本格的な英会話教本が誕生した。

幕命を受けた中浜万次郎によって編まれた『英米対話捷径』(えいべいたいわしょうけい)。

ここにはアルファベット・ABCの歌・数のかぞえ方を前述として、日常英会話フレーズ213がカタカナ発音表記と訳文付きでつづられており、咸臨丸の乗組員も携行したといわれている。

後世に第一級の英学史料として輝くこの文献も、しかし英語教本としての評価となると高いとはいえない。

とくにgood=「グーリ」、that=「ザヤタ」など独特のカタカナ発音表記には疑問を呈する声も多くある。

ところがこの文献を仔細に分析してみると、特異とも思えるカナ表記は音声学的に正当な根拠を有し、現代の英語学習者にも十分役に立つ実用性を備えている。

本書はなかば歴史に埋もれていた『英米対話捷径』を、語学教養書として現代によみがえらせ、皆さんの英語学習に役立つことを目的としている。

第1章では「英語使い」としての万次郎の生涯を追いながら、「彼はどう英語を習得し、どのように英語を使えたのか」を大胆に考察。

続く第2章「『英米対話捷径』現代版」では、江戸時代の和文・漢文で書かれた原典の内容を現代の活字と語順で完全翻刻。

英文には現代訳も付け見やすいレイアウトで再現。

そして原典の発音表記と英文の語法を丁寧に解説し、「万次郎が本当に伝えたかった英語」を究明。

巻末の「『英米対話捷径』復刻版」では原典全ページのカラー写真を収録。古文書の面白さを味わえる。

さらに原典の全会話フレーズをCDに収録し、万次郎の発音表記を皆さん自身で検証できるようにした。

時空を超えて歴史ロマンと語学教養を堪能できる1冊!


=>Back