「ひとつのことで一流を目指す」
森啓成(もりよしなり)
最近、仕事の忙しさにかまけて中途半端な生活を送っている自分自身に対しての戒めとして、今、思っていることや考えていることを書いてみたいと思う。

芸術家、将棋の名人、料理の鉄人、プロ野球の三冠王など各界の一流人同士の対談を雑誌やテレビ等で目にする機会がある。 分野はまったく違っても、一流と呼ばれるひとたちはお互いに理解し会える何か共通の特性、あるいは人間性とでもいうのだろうか、そのようなものを持っているような気がする。 だから、お互いを理解し、認め合い、交流も深まっていくのだろう。

あくまで、推測に過ぎないが、一流に達したひとにしか理解し会えない”一流の域”というものがあり、その”域”に達したひと同士は、お互いに分かり合える何か共通の雰囲気、においのようなものを感じ取ることができるのだろう。 一方がその”域”に達していても、もう一方がその域に達していないとアンバランスな関係になり、同じ土俵では語り合えない。

これらのひとたちは、なにかを究めるに至るまでの過程において様々な苦労、努力、創意工夫を重ねてきた。
 自己の技、能力を磨くのと同時に自分の人間性も磨かれてきたのだろう。

物事の本質はすべて同じなのかもしれない。 根っこの部分でつながっているのかもしれない。 一流の域に達する人たちは先天的あるいは後天的に、物事を究める上で必要な特性、人間性(勤勉さ、素直さ、ポジティブ思考などの性格)をもっており、たまたま自分が興味、関心がある分野を選んだだけであって、その人たちは別の道を選んでいても、一流の域に達することができるように思える。

ひとつのことを究めたひとは別の分野でも一流になれる素質をもっている確率が高いということは、物事を究めるうえで大事なのは結局、人間性ではないのか。 「宝の持ち腐れ」とう言葉があるように、いくら才能に恵まれていても、そのひと自身が、努力し、その才能を開花させていかないと、そのまま活用せずに一生を終えてしまう。 また、その才能を開花させてくれる人と出会っても、受け入れるだけの素直さがないと、自分の才能に気付かずにそのまま一生を終えてしまう。 「玉、磨かざれば光なし」とはよくいったものだ。

木の根っこの部分を人間性とすると、どうのような実(自己の選んだ分野での成功)をつけるかは、その育て方にかかっている。 根っこが腐っていると、その木は育たずに枯れてしまう。
 いい根っこをもっているのに、その木を育てる過程で、毎日、水もやらず、肥料もやらず、手入れもしなければいい実がなるはずがない。

まず人間性ありきということは、恵まれた非凡な才能がなくても、勤勉さ、素直さ、ポジティブ思考等の一流のひとが兼ね備えている特質があれば、全ての分野においてとは言わないまでも、多くののひとは一流になれる可能性があるではないかと思う。 あとは自分が自己の技、能力をどう育てていくかにかかっている。

物事の真理は突き詰めていけば、すべてシンプル、単純だといわれる。 物事を難しくしているのは自分自身の迷い、甘え、恐れ、不安などのネガティブな思考かもしれない。 「案ずるより産むが易し」。 「人間は習慣の生き物」。 実際、やってみて習慣になれば、案外たやすいことも多くある。 一流、プロ、達人の域を目指す為には、毎日の積み重ねがその成功のカギを握っているように思える。

「毎日、同じ事でも繰り返しできるか?」

どの分野においても、地味な、繰り返しの作業をいかに自分で創意工夫し、継続してできるかどうかが、ものごとを成し遂げる上での分かれ目になるような気がする。

プロ野球選手の毎日の素振り、ボクサーのシャドーボクシング、料理人の毎日の仕込み、棋士の日々の詰め将棋、研究職にあるひとの毎日の実験、通訳者の日々のシャドーイング練習など。

以前、東洋太平洋(OPBF)クルーザー級チャンピオンの西島洋介山というボクサーがいた。 彼の所属するオサムジムの会長が西島選手がプロとしてやっていけるかどうかを判断するために、毎日、来る日も、来る日も、地面に穴を掘らせ、その穴の深さが数メートルになると、今度はその穴を埋めていくという単純作業をやらせたそうだ。 通常のひとは、そんな単純なことを毎日やらされていると飽きがきて、到底、続けることは出来ない。 しかし、一流、プロのレベルに達する人というのはどんな単純なことでも毎日、継続してできる人だ。 

西島洋介:
1973(昭和48)年5月15日、東京・板橋区生まれ。 1992年3月、西島洋介山(ようすけざん)のリングネームでプロデビュー。 久々の日本人ヘビー級ボクサーとして話題になる。 米国で95年2月、NABOクルーザー級、97年7月にはWBF世界同級王座を獲得(ともに日本非公認)。 96年10月には東洋太平洋同級王座も獲得したが、所属ジムとの軋轢で98年3月から米国に活動拠点を移した。 1メートル82、24戦23勝(15KO)1敗。 右ボクサーファイター。


一事が万事。 ほんの些細なことでも日々継続してできるひとは一流の域に達する可能性があるが、様々なことを途中で投げ出してしまうひとはすべてのことにおいても中途半端な状態で終わってしまう。 夜明け前が一番暗いといわれる様に、物事を身に付ける上でもブレイクスルー一歩手前が一番つらい時期だ。 夜明け(ブレイクスルー)を見ずに、また、新しい別のことを始めてみても結局は同じ結果が待っている。

小説家なら四六時中、原稿に向かってひたすら書きつづけなければならない。 締め切りに追われ、ホテルで缶詰め状態になることもあるだろう。 その昔、将棋界の快男児として知られた升田幸三氏なんかは兄に納屋に閉じ込められて35手詰めの詰め将棋を毎日解かないと一日中出してもらえなかったという。 稲盛和夫氏率いる京セラが、「日本初の快挙」となった再結晶宝石を生み出す際、開発者たちが寸暇をおしんで日夜研究に明け暮れたという。
 プロレスラーのジャイアント馬場、アントニオ猪木の両氏は、力道山のもとでの修行時代、何千回というヒンズースクワットをおこない、毎日、床一面に汗の水溜りができたという。

升田幸三:
大正7年、広島生れ。 14歳で家を出、木見金治郎名人に入門する。 昭和27年、木村義雄名人を破り王将位獲得。 昭和31年には大山康晴名人に対し、「名人に香車を引いて勝つ」という将棋史上空前絶後の記録を残す。 昭和32年、名人位を獲得し、史上初の三冠達成。 ライバル大山との数々の名勝負をとおして、「大山升田時代」と呼ばれる一時代を築く一方で、「新手一生」を掲げ常識を覆す独創的な新定跡を次々と創作していった。 平成3年没。

英語は語学だから、なにもそこまで必死でする必要はないという考えもあるだろう。 しかし、それは甘い考えではないか。 何事も一流、プロ、達人のレベルを目指すにはそれぐらいの覚悟と心構えで取り組まないと達成できないのが現状だ。 中途半端に物事に取り組んでいれば成し遂げられる成果もまた、中途半端な結果に終わってしまう。 学生時代にお世話になったゼミの担当教授が、「最近は、帰国子女も増え、一昔前に比べ、英語ができるひとは学生のなかでも多くなってきた。 しかし、英語が本当にできるひとはまだまだ少ない。」と言っておられた。 確かに、500語程度の英語の自由作文を書いてみても、文法、語法、スペル、論理の展開などひとつのミスもなく書くことができる人は少ないのではないかと思う。 英語の勉強はいくらやってもやりすぎることはない。 英語力は鍛えれば、鍛えるほど身につくものだと自分では信じている。 限界点を設定してしまうのは自分自身への甘えであり、逃げ口上なのかもしれない。

以前(2001年)、会議通訳者の新崎隆子さんの講演に参加する機会があった。 その講演で、通訳におけるプロとアマの違いは、その訳の商品価値で決まるとおっしゃられていた。 自分の通訳(商品)に対し、誰かがそれに価値を見出し、お金を払うかどうかということだ。 プロに失敗は許されない、常に一定レベル以上の仕事が求められるのがプロ。 手抜きをすると二度とクライアントからの依頼はこなくなる厳しい世界だ。 常に一定レベルの商品を生み出していくには、日々の修行がものをいってくる。 商品の品質を維持するためには日々の品質管理が重要なのと同様、通訳者にとっては、毎日の通訳訓練、情報収集、自己の肉体的、精神的コントロールが必要となってくる。 人間はものではなく、生身の生き物だからその質とレベルを一定に保つのは決して容易なことではないことが想像できる。

現在の雇用状況や企業のニーズから判断しても、何事でも良いから、ひとつのことに一流、プロ、達人と言われるくらいのレベルに達したひとが求められる時代がすでにきている。 何事も平均的なレベルでそつなくこなす器用貧乏タイプより、ひとつのことに抜きん出たひとのほうが、今後、益々、アウトソーシング化が進み、プロフェッショナル集団化する企業では生き残っていける確率が高いといえよう。 要は、自分の代わりはいくらでもいるという状態ではなく、取引先からも内部からもあのひとでないとだめだと思わせるくらいのレベルの高い仕事をしないと将来の行く先はおぼつかない。 

「手に職をつけるか」、「頭に職をつけるか」。 早々に自分の道を見つけ、覚悟を決めて動いたひとは強い。 自分は自分の人生のプロデューサーなのだから責任をもって一日も早くその人生劇の製作に着手しないと出遅れてしまう。 何かの道を究めたひとは、その過程で得た様々な体験から、自分の能力に確固たる自信を持っている。 仮に現在、勤めている会社がたとえ倒産したとしても自己の能力でどこにいっても食べていける能力と覚悟がある。 そのような自信が、余裕をもって日々の仕事を遂行し、よい結果を生み出すもとになっているように思える。

結局、人生はそのひとの「目線の高さ」(自分が思い浮かべるセルフイメージ)で決まる。 人間は自分が日々、(潜在意識下で)思っているようなひとになってしまうと言われる。 自分がなりたいと思う以下の人間にはなれど、理想の姿以上の人間になることはめったにない。 あの世界のホームラン王、元読売巨人軍の王貞治氏でさえ、現役時代1000本のホームランを打つことを目標として取り組んできたが、868本(世界記録)で現役を引退してしまった。 言うに及ばず、多くのものにとっては、目標をいくら高く掲げても、高く掲げすぎることはない。

理想的には、身に付けた自己の能力をどんなレベルでもいいから世の中や他の人のために還元していくことができれば長い目で見て、精神的にも、経済的にもよりよい人生が送れると思う。
 水は一箇所にずっと貯めておくといつかは濁ってきて、飲めなくなってしまう。 水と同様、お金、自己の能力、知識、情報なども溜め込んでおくのではなく、共有化あるいは流動化させて(浄化とでもいうのだろうか)、世の中に還元していくのが理想的な有効活用の仕方だろう。

両手いっぱいにものをもっていると、新しいものはつかめない。 今もっているものを手放すことによって、また、新しいものを手にいれることができるのだろう。

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