あるがまま、ありのまま 3 (2007/4/15〜) 森啓成
2007年4月15日 (日)

2007年4月5日から日本に帰国し、下記の書籍と中国語電子辞書を購入した。


いま二人が一番伝えたい大切なこと―アセンション・フォトンベルト・多次元世界・プラズマ宇宙論-これからこうなる。こう


<関連サイト>
地球空洞説、地底の小太陽、そして地底人



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2007年4月30日(月)


勝 新太郎: 
1931年11月29日-1997年6月21日
本名:奥村利夫(おくむら としお)。 愛称は「かつしん」。 長唄三味線の杵屋勝東治の次男。
東京都江東区深川の生まれ。 妻は中村鴈治郎 (2代目)の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。
兄は若山富三郎。長男は鴈龍太郎。

勝新太郎 履歴:
10代は長唄と三味線の先生として、深川の芸者に稽古をつける。 長唄名は杵屋勝丸(2代目)。

1954年アメリカ巡業の最後に、撮影所で紹介されたジェームス・ディーンと出会い映画俳優になることを決意し、転向。 

23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。

大映社長永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたがさっぱり人気は出なかった。 同年代の雷蔵、山本富士子、若尾文子が早々と大スターとなり君臨する中、憧れの長谷川一夫そっくりのメークも板につかず、客があまりに入らないので映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」と苦情が絶えなかったほどだった。

しかし白塗りの二枚目を捨てた1960年の『不知火検校』で勝は本領を発揮しはじめる。

翌1961年、中村玉緒と婚約。 一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)で共演。 その中で肉屋の女中・お絹役の玉緒に朝吉が「きっと妻にします」と一札を入れるシーンがある。 この映画が最初の大ヒットとなりシリーズ化。

1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。 続く『座頭市』『兵隊やくざ』で絶大なる人気を獲得し、1963年には、長谷川、山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。 特に一連の座頭市シリーズでの演技は評価が高く、日本のみならずアジア各地でも上映され、勝の代表作にまでなる。

1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す。 大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助(萬屋錦之介)の中村プロなどスター・プロの流れに呼応。 当時、経営が傾いていた大映が飛びついていた若者向けの暴力・エロ・グロ路線とは一線を画し、三隅研次、安田公義、森一生、増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう製作を続け、勅使河原宏、斎藤耕一、黒木和雄らアバンギャルドな異才とも製作で手を組んだ。

また『男一匹ガキ大将』、実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身も主演した『御用牙』など、マンガ・劇画を映画化するという新機軸の中にはヒットしたものもあり、テレビドラマ製作にも進出。1970年代前半には映画製作者として一時代を築き、日本のみならず東南アジアの映画マニアに影響を与えた。

1971年、大映の最末期に製作・監督・脚本・主演をこなした『顔役』は撮影所での映画作りの決まりごとをすべて破って作られている。

1974年から1979年にかけて座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作する。

プライベートでのトラブルが絶えず、1978年に、アヘンの不法所持で書類送検される。

1979年には黒澤明監督の映画「影武者」の主役に抜擢されるが、監督と衝突して降板。

1981年に勝プロダクションは12億の負債を残し倒産した。会見時に「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年1982年中村玉緒を社長とした勝プロモーションを設立する。

1989年に長年の沈黙を破り、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・奥村雄大(現・雁龍太郎)が真剣を使い殺陣の撮影中、死体となっている役の役者を刺し死亡させてしまう。 これが勝新太郎の最後の製作映画となった。 1990年の黒木和雄監督の『浪人街』が最後の映画出演となり、以後は舞台などで主演を務める。

1990年1月16日にアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル空港で、下着にマリファナとコカインを入れていて、現行犯逮捕される。記者会見で「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのかって事を知りたい。 俺が知りたい。」と最後までとぼけ通した。結局誰から麻薬を受け取ったのか、最後まで口を割ることはなかった。 裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。

1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。

1992年、兄、若山が死去、納骨式の際、カメラの前で兄の遺骨を食べ、涙を流した。

1996年、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。父がなくなる数日前から添い寝し、施主も務めた勝は墓前での納骨式の際、火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出して泣きながら食べ、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。 このように、勝の肉親への強い思い入れを改めて印象付けた。

1996年7月に下咽頭癌を発病し手術をせずに、抗癌剤と放射線治療を行なった。 入院中も外出を繰り返し寿司や酒を楽しみ、煙草は絶対に止めなかった。約4ヶ月後の同年11月の手術後の記者会見では「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙した。 (一説には療養中は禁煙し、後の喫煙はパフォーマンスだったとも言われている)

晩年は、トライデントシュガーレスガムのCMにも出演していた。

最後の舞台は大阪新歌舞伎座で、中村玉緒と「夫婦善哉」で夫婦役を演じた。

1997年6月21日、下咽頭癌で死去。享年65。

勝新太郎 伝説:

晩年は好きだったB'zのライブにも度々顔を出した。もともとB'zを聴くようになるきっかけとして、B'zのボーカル稲葉浩志との出会いがある。 とある居酒屋で勝が飲んでいたところ、そこに稲葉が来店し、その瞬間一目惚れをしたらしい。 「裕次郎以来、最高の男を見た気分だ」と稲葉を絶賛、俳優としてデビューさせようと試みた。 稲葉がB'zのボーカルだとわかると、その後も時間の許す限り自ら購入したチケットでライブに訪れていた。 ある横浜でのライブに感動した勝はステージに上がり、稲葉に兄・富三郎の形見の品であるテンガロンハットをプレゼントしている。 このテンガロンハットは今現在も稲葉の宝物として、稲葉のプライベートスタジオに大事に飾られていると稲葉本人が発言。 病気の療養の為入院した時も、稲葉から贈られた彼のソロアルバム「マグマ」を死ぬまで何度も聴いた。 勝の死後、B'zは勝へ捧げたとされる曲(「Shower」〜アルバム「SURVIVE」に収録〜)を製作した。 中村玉緒は「最後にもう一度だけでいい、稲葉さんに会わせてあげたかった」と発言している。

生前、カーペンターズの曲をよく聴いていた。その為、妻・中村玉緒がトリビアの泉にゲスト出演し、カーペンターズに関するネタが出た時「(私、これだけは英語でもよく聴いていました。)主人がよく聴いてて・・…」と言っていた。

60年代後半にはいると大映で雷蔵、京マチ子、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。 そのため、ストライキを敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。 しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため勝は驚いた。 何故なら、「20万円上げて欲しかった」事を勘違いされたのである。 これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映NO.1となったと勝は語る。 しかしすぐに雷蔵のギャラも500万円となり並んだ。 全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。 三隅研次監督は「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。 ちなみに入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであった。 雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。

ブレイク前のミスターマリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。

「俺から遊びを取ったら、何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。 実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒のみで座持ちは抜群。 得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。 しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることはザラだったという。 もちろん、勝が全て支払っていた。 同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは大違いであった。 不摂生な生活で肥満し役柄も限定されるようになり、大映倒産後は、時代を追うごとに収入が大幅に減り、借金取りに追われる生活であるにもかかわらず、大スター気分が抜けず、借金で豪遊、高級車に高給な服と外見は豪勢な生活を続けた。そのため債権者や妻の玉緒らに迷惑をかけ、とうとう死ぬまで返済できなかった。

舞台『不知火検校』で、主役でありながら悪行を重ねる不知火検校役で、あまりの填りきった演技に「バカヤロー!死んじまえ!」と、観客から本気と思える野次がとんだ。

石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。 しかし、ある酒宴の席で大げんかになってしまった。 そして、勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と言うと、裕次郎も「あ、ああ、いい芝居だった。」と言い、それで手打ちとなった。

1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言。しかし玉緒に相手にされなかったため離婚成立せず。

晩年、妻・中村玉緒に対し、「勝新太郎は、中村玉緒なしでは存在しない。が、中村玉緒は、勝新太郎なしでも存在できる。」と最高の賛辞を送った。

死後に残った莫大な借金は、香典代わりにチャラにした債権者も中にはいるという噂もある。

<参考文献: Wikipedia>












2007年5月1日(火)


グローイングアップ (1978)

1958年のイスラエルを舞台に、17歳の高校生達の友情、セックス、初恋と失恋など、誰でもが体験する思春期の生活を当時大ヒットした25曲の音楽をバックに描く。 出演はイフタク・カツール、アナタ・アツモン、ジョナサン・シーガル、ツァッチ・ノイ、フェリア・シュトロールなど。

1978年のヒット後、シリーズ化した。


グローイング・アップ2/ゴーイング・ステディ (1979)

グローイング・アップ3/恋のチューインガム (1981)

グローイング・アップ4/渚でデート (1982)

グローイング・アップ5/ベイビーラブ (1984)

グローイング・アップ6/恋のネイビーブルー (1985)

グローイング・アップ7/恋の卒業パーティ (1987)

グローイング・アップ8/サマータイム・ブルース (1988)












2007年5月2日(水)

ロバート・デ・ニーロ (Robert De Niro, Jr)

1943年8月17日 -

アメリカ合衆国出身のイタリア系俳優。 二度のアカデミー賞受賞を誇り、過剰なまでの役作り(詳細は後述)は多くの俳優に強烈な影響を与える現代映画界最高の俳優の一人である。

徹底した役作りは有名でこのような取り組みを示すデニーロ・アプローチという造語もある。

- 『ゴッドファーザーPART2』では、シチリアに住んで、イタリア語をマスターした後に、マーロン・ブランドのしゃがれ声を完璧に模写し、アカデミー助演男優賞を受賞した。

- 『タクシードライバー』では実際に3週間、ニューヨークでタクシードライバーとして働いた。

- 『ディア・ハンター』では、物語の舞台となったピッツバーグに撮影数ヶ月前から偽名で暮らしていた。さらに鉄工所で働こうとしたが、現地の人に拒否されたという。また、この映画のヒロインであるメリル・ストリープの婚約者だったジョン・カザールが癌のために製作側から降板させられそうになったのを、ストリープや監督のマイケル・チミノとともに「彼を降ろすなら、俺も降りる」といってカザールに役を続行させた。

- 『レイジング・ブル』では周知の通り、体重を20キロも増やして役に臨んだ。体重を増やすためにデ・ニーロは、イタリアに赴いて、現地のあらゆるレストランを食べ回った。

- 『アンタッチャブル』では実際に頭髪を抜いて、アル・カポネを怪演した。体重は直後に映画出演が決まっていたので太るわけにもいかず、ボディスーツを着用した。だが、顔だけは太らせて撮影に挑んだ。

- 『ミッドナイト・ラン』では監督、マーティン・ブレストと共に実際の賞金稼ぎと行動し、捕獲の瞬間、張り込み、捜査の方法などを経験した。



ジャック・ニコルソン (Jack Nicholson)

1937年4月22日 -

アメリカ合衆国ニューヨーク市出身の俳優。 サイコな役を多く演じる。 若いころはアメリカン・ニューシネマの代表的な製作者であった。
MGMに入社して映画制作をしていたが、演技の勉強を始め、1958年『お茶と同情』でデビューした。

1969年デニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』でアルコール中毒の弁護士役で注目されアカデミー助演男優賞にノミネート、1970年の『ファイブ・イージー・ピーセス』では同主演男優賞にノミネートされる。 『さらば冬のかもめ』(1973年)などのアメリカン・ニューシネマで強烈な存在感を見せる。

1975年『カッコーの巣の上で』と1997年の『恋愛小説家』でアカデミー主演男優賞を受賞。

1983年の『愛と追憶の日々』では同助演男優賞を受賞している。

1989年には『バットマン』でジョーカー役を演じ、話題に。 エキセントリックな言動や性的ゴシップなど老年にしてなお話題に欠かない俳優である。

NBAのロサンゼルス・レイカーズの熱心なファンとして有名。 『カッコーの巣の上で』では、バスケットをして戯れるシーンがある。 また、ニューヨーク・ヤンキースファンでもある。

若い頃から俳優だけでなく、脚本や監督も手掛ける総合的な映画作家を目指していて、これまでに数本の監督作品がある。 しかし俳優としての圧倒的な名声に比して、監督作で成功した物は無く、『チャイナタウン』の続編『黄昏のチャイナタウン』では、当初監督予定だった友人の脚本家ロバート・タウンの手から奪い取る形で自ら監督を手掛けた。結果は興業的にも批評的にも失敗し、タウンとも絶縁する事となった。







2007年5月3日(木)



サム・クック (Sam Cooke、Samuel Cook)

関連サイト: http://www.samcooke.com/

1931年1月22日-1964年12月11日)

アメリカのソウル/R&Bの歌手。


略歴:

ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。 父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。

19歳のときにゴスペルグループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。

1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。 これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。 それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性が持ち味で、白人層からの人気も高かった。

1958年にはマネージャーのJ.W.アレクサンダーとともに音楽出版社を設立。 後にはSARレコードを設立する。 R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。

このようにクックは黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド・アリとも親交を深める。

1964年の「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。

1964年12月11日、ロサンゼルスのモーテルで管理人に射殺される。 享年33。その死を巡っては謎も多いといわれる。





オーティス・レディング (Otis Redding):  

公式サイト: http://www.otisredding.com/

1941年9月9日 - 1967年12月10日

アメリカ合衆国ジョージア州出身で、ソウル音楽に多大な影響を及ぼした歌手。 激情を込めた独特の歌唱法で知られ、航空事故によるわずか26歳での早世が惜しまれている。

1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズとともに音楽活動を行い、『These Arms of Mine』を発表。 この歌を皮切りに『Mr. Pitiful』、『I Can't Turn You Loose』、『(I Can't Get No) Satisfaction』(原曲はローリング・ストーンズ)、『Respect』(後にアレサ・フランクリンがカバー)などをヒットさせた。

また、当時では珍しく、スティーブ・クロッパー(Booker T & the MG's)と共同で曲作りを行っており、1967年の『Tramp』などが代表作である。 その後、モンテレー・ポップ・フェスティバルにも出演している。

彼は、バックバンドのメンバーとともに搭乗した航空機の事故でウィスコンシン州マディソンで死亡した。 死の僅か3日前に録音された『(Sittin' on) the Dock of the Bay』は、後に彼にとって唯一の全米No.1曲となる。

1970年代後期、息子のデクスターとオーティス二世は、いとこのマーク・ロケットとともに、ファンク、ディスコ系のバンド、ザ・レディングスを結成した。















2007年5月4日(金)


SHOGUNオフィシャルホームページ

http://www.sho-gun.net/

男達のメロディー
(作詞:喜多條忠 作曲:Casey Rankin 編曲:大谷和夫)  『俺たちは天使だ!』 主題歌 1979年4月発売


走り出したら 何か答えが出るだろうなんて オレも当てにはしてないさ してないさ
男だったら  流れ弾の一つや二つ     胸にいつでもささってる  ささってる

Pick up Your head
Throw away your bulue's どうせ一度の人生さ

The more you give
Babe the less you lose 運が悪けりゃ死ぬだけさ 死ぬだけさ

オレとお前は まるで懐かしい友達さ    初めてであったハズなのに ハズなのに
明日も気が向きゃオレの側に居てもいいけど オレの事には構うなよ 構うなよ

Pick up Your head
Throw away your bulue's どうせ一度の人生さ

The more you give
Babe the less you lose 運が悪けりゃ死ぬだけさ 死ぬだけさ

お前がこの街 離れてゆく気になったら オレは笑って見送るぜ 見送るぜ

Pick up Your head
Throw away your bulue's どうせ一度の人生さ

The more you give
Babe the less you lose 運が悪けりゃ死ぬだけさ 死ぬだけさ















2007年5月5日(土)


四人囃子オフィシャルホームページ
http://www.4nin.com/




東映映画『酔拳ドランクモンキー』  オリジナル・サウンドトラック盤





拳法混乱
Vinyl作詞/MA-CHANG作曲/四人囃子編曲

香港熱風  試練鉄拳
殺気参上  拳法混乱

お前の目の前に  奇跡の人がいる
楽園の使者  僕がいる
強い酒を吹き付ければ
ここは氷河の都市となる

お前の陰の上  霞の人がいる
風雲の使者  僕がいる
強い夢で引きつければ
ここは架空の都市となる

僕そのものが  正義で愛なんだよ
東から西へ  命が動く
拳法混乱

緊張問題  戸外活動
脱自然美  拳法混乱

お前の胸の中  微熱の人がいる
突然の使者  僕がいる
強い雨を巻きつければ
ここは密林の都市となる

僕そのものが  正義で愛なんだよ
東から西へ  命が動く
拳法混乱